第7回 あるがままに

Godの思し召し

 楽観主義は英語で「optimism」だが,この言葉だけをみていると,語源はわかりにくい。イタリア語で,「この白トリフは絶品だね」と言うときの「絶品だ」は「ottimo(オッティモ)」*1(「ottimo」の語源はラテン語の「optimus」)。「optimism」は,イタリア語では「ottimismo」で,つまり「ottimo 主義」ということになる。なんだか良さそうな言葉の響きだが,もとはドイツの哲学者であるLeibniz(ライプニッツ)が創り出したものだそうだ(ドイツ語では,「Optimismus」)。ただ,彼の楽観主義は,今日のこの言葉の語感とはかなり違う。

 筒井康隆の最近の話題作『モナドの領域』(新潮社,2015年)*2のなかで,現実世界に舞い降りたGodが法廷やテレビのトーク番組で語るのは,Leibnizのモナドロジーの世界だ*3。Godは,災害も戦争も,すべてモナドに組み込まれているとし,人類にとっての悪であっても真だということを,福澤諭吉の「善というのは建前的で胡散臭く,だから信用できない。むしろ悪の方が信じられる」という言葉を引きながら語っている(131頁。ただし,福澤のほうの出典は不明)。

 全知全能の神は,あらゆる可能世界のなかで,この現実世界を創造した以上,それが最善であるはずだ。災厄があっても,それには理由がある。戦争しかり,災害しかり。

 このようなLeibniz的楽観主義によると,人工知能やロボットの急速な発展も,神が選択した現実世界の合理的な展開過程にあるとみてよいのかもしれない。

「錯覚いけない,よく見るよろし」

 人工知能の発達で打撃を受けた頭脳労働の一つが,以前にも取りあげた,将棋のプロ棋士の対局だろう(囲碁のプロ棋士も危うい)。現在では,普通に戦えば,人間はコンピュータソフトに勝てない,というのが常識だ。ところが,プロ棋士の仕事が今後なくなるかというと,そうでもなさそうだ。

 プロ棋士の仕事は,ファンあってのものだ。将棋ファンは,たしかに誰が一番強いのかに関心がある。だからといって,ソフトに負けるような弱いプロ棋士の将棋なんて見たくないということにはならない。ファンが求めている強さは,コンピュータ的な強さとは限らないからだ。

 史上最強の棋士との呼び声が高い羽生善治によると,将棋は「あとからミスしたほうが罪が重い」そうだ。あとのミスは,それまでのミスの分も加わって大きくなるからだ。だから「序盤から少しずつ利を重ねてきても,たった一手の終盤のミスで,ガラガラと崩れ去る……そこが将棋の面白いところでもあり,逆転も多く起きる」*4。ただ,こうした逆転は,人間がやるからこそ起こることだ。強いコンピュータは終盤ではまずミスをしないので,逆転は起こりづらい。ファンが期待しているのは,ミスをする弱い人間のドラマなのだろう。

 実力制第4代名人の称号をもつ升田幸三は,実績ではライバルの大山康晴15世永世名人に劣るが,現役当時から人気があり,没後もなお人気が高い*5。この升田の有名な言葉に「錯覚いけない,よく見るよろし」というものがある。

 高野山の決戦と呼ばれた,1948年の第7期名人挑戦者決定三番勝負。1勝1敗で迎えた第3局で,先手の升田は必勝の局面を迎えたが,土壇場で致命的なポカが出て大山に敗れ名人挑戦を逃してしまった。大逆転劇だった。

 升田は,30歳のときのこの手痛い敗戦のことを,終生悔やんでいたという。このときに升田は後輩の大山に追い抜かれてしまったといえるからだ。どうして,この対局で升田はポカをしてしまったのか。途中まで自分の思いどおりに手順が進んで,局面を非常に楽観していたからだ。たしかに,ずっと局面は升田が優勢であり,必勝に近いところまでいっていた。しかし,楽観が最後の重要な局面での気の緩みとつながり「錯覚」をもたらしてしまった。

 ただ升田が将棋界の歴史に残る強豪棋士だったことは事実だ*6。つまり,楽観派も悪くないのだ。現在(2016年5月1日から),日経新聞の「私の履歴書」に登場している中原誠16世永世名人もまた楽観派で有名だ。中原名人の将棋は,「自然流」と呼ばれていた。実力が拮抗しているプロ棋士の対局では,局面を楽観して踏み込んで自然に攻めていくという姿勢が,ここ一番の勝負を左右するのだろう。もっとも,女流棋士林葉直子との恋には楽観しすぎたかもしれないが。

サニーブレインとレイニーブレイン

 人間はなぜ楽観したり,悲観したりするのか。Oxford大学の脳科学研究者であるElaine Fox教授は,この違いは,脳の働きの違いによるとする。「脳の中には思考をつかさどる新しい領域と,原始的な感情をつかさどる古い領域があり,両者は神経繊維の束で結ばれている。この結びつきが,さまざまな心の動きを生む」とする*7

 脳には「快楽ボタン」のある側坐核と「パニックボタン」のある扁桃体があり,それぞれが連携して私たちの認識や行動を左右しているそうだ。前者が楽観脳(Sunny Brain)で,後者が悲観脳(Rainy Brain)で,その働きによって,個々人の「心の姿勢」(アフェクティブ・マインドセット:affective mindset)が決定づけられる。楽観脳が強ければ楽観主義となり,悲観脳が強ければ悲観主義となる。

 悲観脳がただちに悪いということにはならない。人類が生き延びるためには,自然や猛獣の脅威から逃れることが必要だったので,恐怖には敏感にならなければいけなかった。また快楽ボタンは,食欲や性欲のような生存に必要な行為のために必要なものだが,依存症となるおそれがある。そもそも人間は将来に希望をもちたがる傾向があるので,適度な抑制がなくてはならない。その意味で悲観脳の作用も必要なのだ。ただ,悲観脳が強すぎると,ネガティブなことにばかり目がいき,将来に絶望しがちで,うつ病などの精神疾患にもかかりやすくなる。

認知バイアス

 悲観脳と楽観脳の作用は,さまざまな認知バイアス(cognitive bias)をもたらす。認知バイアスとは,私たちの認知作用が,思い込み,希望,恐怖などの作用のために歪んでしまうことを意味する。

  Woody Allen (ウディ・アレン)の「Annie Hall(アニー・ホール)」という映画(1977年)は,彼が演じるAlvy Singer とDiane Keaton(ダイアン・キートン)が演じるAnnie Hallとの大人の恋の物語だ。死の妄念にとりつかれているAlvyは,明るく天真爛漫なAnnieに惹かれるが,徐々に性格の違いからすれ違いが生まれ,最後は別れてしまう。二人の関係がちょうどうまくいかなくなり始めていたころ,二人が精神科医らしき人に性生活に関する相談をしている場面がある*8

Alvy「妻は,セックスを週3日しかしてくれないんだ」

Annie「夫は,セックスを週3日も求めてくるのよ」

 すれちがいを象徴するセリフだ。週3日のセックスという客観的な事実は同じでも,それに対する認識が二人の間で異なっている。

  Alvyは悲観主義の権化のような男だ。自分から離れていきそうなAnnieとの関係を,セックスにより確かめようとしたのかもしれない。だから回数が多くないと悲観的になり不安になる。週3日もすれば十分だろ,とAlvyに言ったとしても意味がない。これは認識の違いからくる,主観的な「心の姿勢」に由来するものだからだ。とはいえ,夫婦間ではこれは軽視できない深刻な問題だ。性の不一致は離婚理由にもなる*9。悲観主義は不幸を招きかねない。

 

 前述のように,悲観主義は,人類の生存のために必要なものだった。危険を敏感に察知して行動をとるとき,脳の最も原始的な領域が働いているのだ。ただ,原始時代よりはるかに安全な現代社会において,必要以上に悲観的であると,社会生活に支障が生じることもある。

 認知バイアスの一類型に後知恵バイアス(hindsight bias)というものがある*10。いったん医療事故があれば,医師は事前に予測できたとして過失責任を問われやすくなるというのが,この後知恵バイアスの例だ。後知恵バイアスが強くなりすぎると,医師は危険な手術に挑まなくなるだろう。実際に手術を回避できないとなると,医師になる者自体が減っていく可能性がある。これでは困る。

 労災のときの安全配慮義務(労働契約法5条)にも,後知恵バイアスがありそうだ。実際に悲惨な労災が起きてしまったとき,裁判官は,事業者は事前にその事故を予見できたはずで,それを回避すべきであったと考えやすいように思える。

 もちろん後知恵バイアスは,悪いことばかりではない。労災のように,いったん発生すれば労働者の生命や身体に大きな影響を及ぼすものは,事業者の責任を厳しくしておいたほうが,十全な予防対策をしようとするようになるのでよいのだ,という考え方もあるからだ。

 ただ,これも程度問題だろう。うつ病自殺の予見可能性が事業者に対し厳しく評価されるようになると,採用の過程で精神的に弱そうだという印象がある者は採用されにくくなるかもしれない。あるいは,事業者が,従業員の精神状態を気にして,必要以上にその私生活を探索するようになるかもしれない。これは,事業者が,労基署や裁判所の後知恵バイアスをおそれることから生じる弊害だ。

  そのように考えると,やはり後知恵バイアスを除去し,できるかぎり客観的なリスク評価をすることが大切なのだ。後知恵バイアスを放置する社会になってしまうと,私たちは必要なリスクがとれなくなってしまう。このことは,私たちが,人工知能のリスクを考える場合においても考慮すべきことだろう。

許された危険

 かつて刑法の講義で「許された危険(erlaubtes Risiko)」の法理を教わったことがある。有斐閣の『法律学小辞典〔第5版〕』(2016年)*11によると,この法理は「法益侵害の危険を伴うが社会生活上必要な行為について,その社会的有用性を根拠に,法益侵害の結果が発生した場合にも一定の範囲で許容するという考え」と説明されている。

 そして,この法理を正当化する根拠として,行為の社会的相当性に求める見解以外に,「行為の有用性・必要性と法益侵害の危険性との比較衡量によって前者が優越する場合に危険な行為が許容される」という見解も有力としている。

 こうした比較衡量の発想は,刑事法の領域にとどまらず,国が危険性のある技術を導入しようとする際にも,常に考慮すべきことだろう。社会は,ある程度の危険性を許容しなければ,進歩することが難しい。たとえば鉄道列車,飛行機,自動車が登場するとき,危険性は予測できただろうが,利便性が上回ったからこそ導入されたはずだ。その後も,一定の頻度で大きな事故が起こったり,将来的にも事故発生が予測できるものの,だからといってこれらの使用を全面的に禁止することは現実的ではない。

 現在,ドローンや自動運転車などについて,こうしたことが議論されている。新しい技術にはさまざまな危険性があるとしても,それが「許された危険」の範疇に入るかどうかが慎重に検討されなければならないのだ。人工知能も同様だが,人工知能が厄介なのは,行為の有用性,必要性,利便性は比較的想定しやすい一方,法益侵害の危険度がよくわからないので,比較衡量が難しいことだ。「プロメテウスの火」*12のごとく,人類にとって制御できない巨大リスクだとすると,比較衡量するという手法をとる前提を欠くことになる。

 

 塚本昌彦教授は,神戸大学が誇るウエアラブル・コンピュータの第一人者だ*13。ウエアラブル・コンピュータは,モバイルよりも進化した装着型のコンピュータのことで,塚本教授はその普及に熱心で,教授自身も,日常的にウエアラブル・カメラ搭載のグラスを装着されているそうだ。ウエアラブル・コンピュータが,私たちの生活にもたらす利便性は非常に高い。

 もちろん,こうしたものはなくてもよいという人もいないわけではない。私の周りにも,いまだに頑としてスマホを使わないという人がいる。しかし,そうした人は徐々に少数派となりつつある。すでに現在でも,一定年齢以下となると,スマホのない生活は考えにくくなっている。ウエアラブル・コンピュータも,そう遠からず社会に浸透するだろう。

 ただ,このデバイスには若干の懸念もある。とくにウエアラブル・カメラが問題だ。町で通り過ぎる人の個人情報が,ネットを通してすぐにわかってしまう。盗撮のおそれもある。ウエアラブル・カメラを付けた人が前から歩いてくると,思わず警戒してしまうだろう。つまりプライバシー侵害の危険があるのだ。プライバシー侵害と利便性の比較衡量。これも許された危険の問題の一類型だろう。

情報工学の研究者と法学者との会話

「法学者って,新たな技術が出てくると,すぐ○○権とか言ってケチをつけてくるよな。プライバシー権もそうだ。プライバシーってそんなに重要なものなのか」

「プライバシーの定義には議論もあるが,いずれにせよ憲法という国の最高法規で保障されているものだから,軽視はできないぞ」

「憲法には,プライバシー権のことが書かれているのか」

「正確にいうと,憲法13条で保障している幸福追求権の一つに含まれるものだ」

「幸福追求とプライバシーだと,ちょっとずれているような気もするけどね。だいたいベッキーとゲスの極み乙女のボーカルのラインでの会話はどうなんだ。日本中の人が知っているぞ。プライバシー権なんて,そもそもないんじゃないか」

「プライバシーの権利は,公権力が国民のそうした権利を侵害してはならないということなんで,ベッキーとゲスの間のことは直接は関係しないんだ」

「マスコミは公権力みたいなものじゃないか」

「そういう見解もないわけじゃないけど,俺はちょっと違うと思うな。ただ公権力ではなく,私人の間でのプライバシー侵害も問題となりうるんだ。かつて三島由紀夫の『宴のあと』は,政治家の有田八郎の私生活を暴いたものとして問題となって,三島が裁判で負けた*14。君が誰かのプライバシーを侵害すれば,不法行為として損害賠償を請求されたり,表現物なら差止めを請求されたりすることがあるんだ*15

「そりゃ,やりすぎはいけないということだろ。それに有田八郎は純然たる私人じゃないだろ」

「いずれにせよ大事なのは,プライバシーは法的に保護されるべきものだということだ」

「公権力というので思い出したが,実際に,日本中いたるところに防犯カメラが増えつつあるという現実はどうなんだ。これも警察がやっていれば,公権力によるプライバシー侵害ということになるんじゃないか」

「そうともいえる。だから,反対論もあるんだ」

「でも防犯カメラがあれば,犯罪防止や犯人の早期逮捕につながるぞ」

「そのメリットは否定しないが,あんまりそれをいうと日本中監視だらけになってしまうじゃないか」

「別にそれでいいんじゃないか。家を一歩出ると,プライバシーなんてないだろう」

「それって窮屈な社会じゃないか」

「普通の良き市民なら,何とも感じないのじゃないか。君は,違法路駐したり,不倫路チューをしたいから,窮屈に思うんだろ」

「バカなことを言うな」

「警察ロボットが監視カメラを搭載して巡回してくれるなんて社会が来たら,こんなに安心なことはないぞ。警察官の失業が増えるかもしれないけど,サイバーテロ対策といったこれから増えそうな業務に人材を回せばいいんだ」

「それもそうだが,そうした治安面でのメリットと,失われるデメリットとの比較が大切なんだ」

「そんなもの比較できるのか」

「法学者は比較するんだよ」

「法学者は,ずいぶんと無茶なことをするんだな。でもさっきも言ったけど,現にプライバシーなんてあんまり保障されてないんだぞ。その現実は,法学者も無視できないだろ」

「たしかにそうだが,現実が常に正しいとは限らない。現実が,法的なチェックを受けずに暴走している可能性だってあるんだ。だから法学者は,『~べき』という規範論をやるんだ。現実がすべてなら,規範論は不要となる。かりに殺人が横行する現実があったとしても,それで殺人が正当化されるわけではないのと同じだ」

「ただ,現実が規範を動かすことはあるだろう」

「うん。そうやって法は発展してきたからな」

「だから,人工知能やウエアラブル・コンピュータの普及は,規範を変えたり,新たな規範を創り出したりすることを要請しているんじゃないか」

「総論的には,そうともいえそうだが,各論となると議論が分かれそうだな」

「筒井先生の小説のGodなら,Leibnizを引きながら,この現実社会は神が創ったものだから,この現実こそ真理だと言ってくれそうだな。神の意志に導かれていることを人間の規範で評価するなど畏れ多いことだ,とね」

「おいおい,いつから現実主義者の君が,神を語るようになったんだ」

「現実を見つめるからこそ,神を信じざるを得ないのさ」

不確実性の時代にこそ楽観主義

 絶対的な神(唯一神)をもたない多くの日本人にとって,Leibniz的な楽観主義の支持者はそれほど多くなかろう。

 それに升田幸三の高野山の決戦の例をあげるまでもなく,楽観主義には失敗も多い。升田は実力制名人の称号を特別に授与されたが,タイトルの数はそれほど多くなかった。名人を初めとするタイトルをとるには,トーナメント戦やリーグ戦を勝ち抜かなければならない。天才的な将棋を指して勝っても,次の対局で負ければタイトルはとれない。

 日本のエリートである高級官僚の多くは高学歴者だ。難しい試験を突破してきている。高校受験,大学受験,公務員試験など,重要な試験は年に1回しかない。失敗は許されない。こうした試験は出題範囲がある程度決まっているので,楽観主義者よりも悲観主義者のほうが向いている。何とかなると考えて,試験よりも目先の快楽に逃げてしまう楽観主義より,決められた出題範囲のなかで万全を期して臨む悲観主義のほうが,成功の確率が高くなるからだ。官僚には,悲観主義の人のほうが多いような印象がある。

 大企業の経営幹部もそうだろう。経営状況が順調に進んでいるとき,そこで起こるリスクを多めに評価する悲観主義のほうが安心だ。想定されるリスクを大きく評価するので失敗が減るからだ。高度経済成長時代は,時代の波が企業経営の推進力となったので,舵取り役の人間は,その流れに沿って堅実に航行できる悲観主義者のほうが重宝された。

 しかし,現在は社会が大きな変革期を迎え,将来が大きな不確実性に覆われている時代だ。順風が吹かないなか,自らの判断で航路を決めて巡航していかなければならない。悲観主義では,先に進めなくなったり,大きなチャンスを逃してしまったりする。ベンチャー企業家のような進取の精神をもつべきなのだろう。

 もちろん,楽観主義でも,楽観したように結果が生じるわけではない。誰であっても,現実に起きたこと,そしてこれから起こることからは逃避できない。問題は,その現実に,どのような姿勢で立ち向かうかだ。楽観主義者は,不幸な結果が起きても,それは一時的なものと考えて,頑張れば良い結果が得られるだろうとするポジティブな考え方をもつ人のことだ。

 

 前記のFox教授の著書では,アメリカの人気俳優Michael J. Fox(マイケル・J・フォックス)*16の例が紹介されていた。人気絶頂期の30歳のときにパーキンソン病にかかってしまった彼は,自分の身に起きた悲劇的な事実の意味は十分にわかっていたが,彼は幸いなことに楽観主義だった。楽観脳が強かったのだ。Fox教授は,彼の例をあげながら,大事なことは,現実をしっかり見つめ,そのうえで将来を楽観し,希望を捨てないことだと説く。現実的な楽観主義の勧めだ。ちなみに,Fox教授は,「心の姿勢」は,努力で変えられると述べている。悲観的なあなたも楽観的になれるということだ。

 人工知能の危険性に対しても,いけいけどんどんのノリの楽観主義では危ういが,現実的な楽観主義ならむしろ推進すべきだ。リスクを客観的に評価して受けとめたうえで,過度に悲観主義に陥らず,将来を楽観していくという姿勢が必要なのだ。

Foxの教え

 僕が困っていると,Mother Mary(聖母マリア,あるいはPaul McCartneyの母のメアリー)がやって来て,叡智の言葉(words of wisdom)をささやいたというのが,Beatles(ビートルズ)の「Let it be(あるがままに)」の出だしだ。どこか宗教的な趣のあるこの名曲は,Leipniz的な楽観主義や予定調和観と親和的だ。

 人工知能の発達も,「モナドの領域」の世界のことなのかもしれない。Leipniz的な「可能世界」は,いくつもありえるだろう。人工知能の発達がどこまでも進んでいくという世界,人間が将来のリスクを高く評価したり,悲観主義から,現代版ラッダイト運動を展開する世界。あるいは,人工知能の発達を規範により制御していくという世界……。神の意志はどこにあるのだろうか。

 

 野村総合研究所が発表した「人工知能やロボット等による代替可能性が低い100種の職業」*17に大学教員の仕事が含まれていた。でも,私は楽観していない。たしかに,大学教員の仕事は多様であり(研究,教育,学内行政,本の執筆,講演,公的活動,査読,外部研究資金獲得等)*18,こういう仕事を一人でやりこなすのは大変だ。だから,人工知能やロボットでは代替しにくい非定型的労働にリストアップされることには理由がある。ただ,大学教員の仕事のなかの中核は,やはり研究と教育であり,これは人工知能が凌駕する可能性が高い。やはり大学教員の仕事はなくなっていくのだと思う。

 ここまでは自分の仕事の未来には悲観的だが,ここから先のことは実はかなり楽観的だ。人工知能が仕事を奪うという悲劇が起きても,将来には希望があると考えている。「あるがままに」は虚無的になることではない。希望の未来に向けて,自分たちのやれることを模索することが大切なのだ。これが「Foxの教え」だ(Elaine FoxとMichael J. Fox の二人のFoxに引っかけて,そう命名してみた)。私の場合,それは将来の雇用社会を見据えながら,周到な研究計画をたて,目前の課題を一つずつこなしていく,ということなのだろう。そこから先のことは,神のみぞ知るだ。

次回に続く 

*1:他に,「buonissimo(ブゥオニッシィモ)」や「squisito(スクイジィート)」などという表現も使われる。

*2:モナドの領域 : 筒井 康隆 : 本 : Amazon

*3:モナドロジーについては,訳書も多い。本稿で参照したのは,『モナドロジー・形而上学叙説』(清水富雄他2名の訳)(中央公論社,2005年)→ Amazon.co.jp: モナドロジー 形而上学叙説 (中公クラシックス) 電子書籍: ライプニッツ, 清水富雄, 竹田篤司, 飯塚勝久: Kindleストア

*4:羽生善治『決断力』(KADOKAWA,2005年)99頁。→決断力 (角川oneテーマ21) : 羽生 善治 : 本 : Amazon

*5:升田幸三 - Wikipedia

*6:永世名人以外に,実力制名人という称号があるが,それは抜群の成績を残しているにもかかわらず,名人のタイトルに恵まれなかった(3期にとどまった)升田のために,日本将棋連盟が設けたものである。名人 (将棋) - Wikipedia

*7:エレーヌ・フォックス(森内薫訳)『脳科学は人格を変えられるか?』(文藝春秋,2014年)。以下の内容は,同書によっている。→脳科学は人格を変えられるか? : エレーヌ フォックス, Elaine Fox (原著), 森内 薫 : 本 : Amazon

*8:フォックス・前掲書の序章の冒頭で紹介されている(7頁)。

*9:民法770条1項の裁判上の離婚事由には明示的には含まれていないが,5号の「その他婚姻を継続し難い重大な事由があるとき」という一般条項に含まれる可能性がある。

*10:認知バイアスの説明については,飯田高『法と社会科学をつなぐ』(有斐閣,2016年)213頁以下がわかりやすく参考になる。→Amazon.co.jp: 法と社会科学をつなぐ: 飯田 高: 本

*11:Amazon.co.jp: 法律学小辞典 第5版: 高橋 和之, 伊藤 眞, 小早川 光郎, 能見 善久, 山口 厚: 本

*12:プロメーテウス - Wikipedia

*13:塚本昌彦先生ホームページ

*14:宴のあと - Wikipedia

*15:石に泳ぐ魚事件・最3小判平成14年9月24日(平成13年(オ)第851号,平成13年(受)第837号)。石に泳ぐ魚 - Wikipedia

*16:マイケル・J・フォックス - Wikipedia

*17:本連載の第4回でも言及した。日本の労働人口の49%が人工知能やロボット等で代替可能に | 野村総合研究所(NRI)

*18:杉原厚吉『大学教授という仕事』(水曜社,2010年)を参照。これは理系の教授の話で,文系の教授とは違うところも少なくない(たとえば,法学系の教授は,研究室単位の活動はしていない)。→大学教授という仕事 | 杉原 厚吉 | 本 | Amazon.co.jp

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